この金ヶ作陣屋の敷地図は、国土地理院から提供された明治期の迅速測図、1947年に米軍が撮影した空中写真や古い公図と地積測量図により確定したものであり、飯沼誠氏の研究成果である。
調査協力:土地家屋調査士 奈良橋達也
編集・印刷: 金ヶ作歴史同好会 堀井英夫
協賛: 故郷を語ろう会、金ヶ作歴史同好会
令和4年9月30日
金ケ作陣屋
私たちが住む常盤平陣屋前町会には、徳川幕府の金ヶ作陣屋が置かれていました。徳川吉宗が八代将軍となった享保の時代、開墾や干拓事業が盛んに行われるようになります。牧制度の改革を献策した小宮山杢之進昌世が野方代官となってやってきたところから、金ヶ作の歴史がはじまります。この頃に牧士の長であった綿貫氏も30俵の扶持を与えられて野馬奉行と称するようになります。
ちなみに常盤平という名称は、昭和30年11月に金ヶ作地区土地開発事業が発表されてのち、公募してつけられた名称です。常盤平団地の中心部に金ヶ作公園があるのは、その名残です。
享保期の金ヶ作陣屋は、徳川将軍直属の牧となった中野牧・下野牧を管轄するだけでなく、金ヶ作の新田開発や支配下の村々(小金牧の外側の地域を含む)における訴訟業務も取り扱って、白洲も設けられました。江戸から大和屋・中屋という公事宿二軒を招いて訴訟業務をさせています。さらに 中野牧の御囲(現五香西1丁目、松飛台界隈)を中心に行われた合計4回の小金原御鹿狩の際には、重要な役割を果たしたと思われます。金ヶ作陣屋の設置年月については不確かで断定できませんが、享保8年(1723年)頃には完成していたと推測されています。
慶応4年・明治元年(1868年)戊辰戦争の際には大鳥圭介らの残党によって一時占拠されたり、明治新政府の下では大蔵省勧農寮牧畜掛金ヶ作役所とも称しましたが、小金牧・佐倉牧は東京窮民の開墾事業が進行し、明治5年(1872)には牧士が廃止されて、さらに翌年には旧牧地は全廃されて金ヶ作陣屋もその役割を終えました。
建物の見取図などないですが、陣屋の規模は、牧士の子孫である三橋力家旧蔵文書「従野馬始之野方万控(鎌ケ谷市教育委員会所蔵)」の享保八年新規御陣屋御取立之家として、以下のように記されています。
- 長六間・横二間の書椽つき役所
- 横二間・竪(たて)九尺の玄関
- 横三間・竪七間の手代居間・台所・茶の間・水夫部屋を兼ねた書椽と御白州つき
- 横二間・竪七間の内廐(うまや)二ヶ所
- 雪隠二ヶ所
- 横二間・竪三間の門・物置の付いた土蔵屋
- 横九尺・竪二間の稲荷宮
- 井戸ひとつ
- 横二間・竪三間の馬のお払場
1間(6尺)は1.818m、1尺(10寸)は0.303mで計算する(近似値)
徳川将軍の小金原御鹿狩
1. 享保10年(1725)3月27日 8代将軍吉宗
2. 享保11年(1726)3月27日 8代将軍吉宗
3. 寛政7年(1795)3月5日 11代将軍家斉
4. 嘉永2年(1849)3月18日 12代将軍家慶
参考
「江戸幕府の直営牧」大谷貞夫著、岩田書院、2009年11月
「松戸と徳川将軍の御鹿狩」松戸市立博物館令和2年度企画展、2020年9月26日発行